11/20 2024 02:52 |
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08/02 2006 12:08 |
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みんなの価値観が尊重され、共に豊かに暮らしてゆける社会を築くには、宗教と政治を分離する必要がある。その理由は、一つの宗教が政治的力を持つと、その宗教における「正義」がそれを信じない人にも強要されてしまう危険性があるからだ。強要とまではいかなくとも、それを信じないひとに不平等な取り決めがなされうる。では、なぜそれが問題なのかについて考察する。 PR |
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私は本来法と道徳は同じ観念であり共通点は似たようなところがあると思う。その代表例が刑法199条の殺人罪や235条窃盗である。この法がある限り、人を殺したり他人の財を盗ったりすれば当然の報いをうけなくてはいけないという成文があるのだ。道徳に関しても同じことが言える上記のようなことをしでかせば世間から冷たい目でみられてしまい道徳や社会的倫理に反しているとののしられ、批判されるのである。
法や道徳を侵せば、それ相応の報いが自分に返ってくるという共通点があるが、法はある一定の期間や物事を満たせば釈放とういう形式で重荷がとれてしまうが道徳や社会倫理の侵害に関してはなかなかそういうわけにはいかない、世間のその人に対するイメージはそう簡単には拭い去れないものでかなりの時間を必要とする末路が待っている。そういう意味で道徳は法よりも重くのしかかるのだ。単に物理的苦しみとそうでない苦しみとに分けきれないものでもある。しかし道徳と法はいい意味で共通している、正当な理由があれば人が死んでも許される場合がある、例えば殴りかかってきた人に応戦した結果死なせてしまったということならば正当防衛という違法性阻却事由が成立するのだ。これには世間の目から見てもたいがいの人はまぁ仕方ないと解かってくれるだろうと思う。もちろん全部が全部でないが。こういう共通点もある。 結果として、法と道徳は人に対する秩序的役割のものであり法で許されても道徳観で許されないこともあるだろう、そしてその逆もあると思う。そのような観点を経て法は人間が作った成文法であり、道徳も人間の作った暗黙のルール、つまり不文法なのである。 |
まず、社会上における法と道徳の近似性があげられる。古代社会では、規制などは国家が認めた宗教の規律から行われていることが多い。宗教の規律は道徳へと変化し、そこから法へと派生した。法と道徳は、互いに近い部分がある。殺人に対する法は、「人を殺してはいけない」という、道徳規則に通じる部分がある。
しかし、法と道徳の異なる点は、道徳は違反したとしても制裁を受けない場合があるのに対し法は組織された力による強制が課せられる点にある。法と道徳の違いを人間に対する、または生ずる方向の外的作用と内的作用、義務の相手方の存在という点から区別する説もある。しかし、民法・刑法における過失や善意といった人間の内面に関する条項の存在、道路交通法における明確な義務の相手方の不在という点から矛盾は生じる場合もある。 法は、殺人罪の規定にみられる「人を殺してはいけない」など道徳の影響を受けている点がある一方で民法における債務の時効の制度は「約束を守らなければならない」という道徳観に反するような点もある。これは、法が社会の秩序を達成する目的をもち、そのための手段であることに関係している。また、法技術的な点から「右側通行」など道徳に関係しないことも規定がしてある。法とは強制を伴う。道徳は人間の生活の理想を実社会の実情に関わらず描いたものであるため、社会を道徳に全てゆだねることは問題は生じる。過去、道徳を法の代わりに用いることによって失敗した政治もある。 以上のように、法には社会的に則した技術的要素がある。そのため、一般に悪法と呼ばれる法であっても、社会の実情を鑑みて、ある程度許容せざるを得ない場合もある。法と道徳はこのように実社会における影響という点で異なる点もあるが、あまりにも道徳的にかけ離れた法は社会からの支持を受けられず、長期間の効力を維持できない可能性もある。 【2006/08/2222:34】||ブルー#99d15f2f62[ EDIT? ]
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