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09/11 2006 09:34 |
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①法の解釈は法の条文を解釈しわかりやすくしていくといったことだ。まず述べなくてはいけないのは法の解釈の必要性、なぜ法解釈が必要とされているのかという課題が挙げられる。それはその事実を真の事実として認めるために必要なのだ、つまり実際にあったことを掘りかえし、それが事実として認めてもらうために必要な証拠を見つけるためにある、そしてさらにこの事実にあった法規を適用していかなくてはいけない。その証拠を見つけるにあたって裁判官の判断が介入するのはどうしても避けられない。さらにその事件に対する判決は犯人に対する大前提たる適用法規と小前提たる実際にあった事実との織り交ぜで出てくる機械的なものではないのだ。しかし妥当な結論を導こうと努力して解釈していこうとしても法的安定性を欠く場合や裁判官の恣意的な解釈判断が付きまとうという残念な可能性がある。ではどうすれば誰もが認める判断を生み出すことができるのだろうか。 ②-Ⅰ法を解釈するにあたって立法者意思説と法律意思説の対立がある。まず前者のメリットデメリットを挙げるなら、立法者の判断は解釈するのに重要な役割を担っている。実際国会の審議でも重要な文献として引用され解釈の参考となっている。しかしデメリットをあげるならそのことは決して絶対的なものではないこと。というのも、法は立法者の手によってつくられるわけだが、立法者の手から離れれば客観的意見としてとられてしまうのだ。次に法律意思説は法の条文の言わんとしていることを視野に置きつつ解釈を行っていく。これは法を扱っていくうえでは基礎的なことであるし大切なことだ。しかし、法の条文を重視するので条文の引用になりがちで融通がきかない。このことは自由法学と概念法学の対立と似ている。法的三段論法を堅く守り、恣意的な考えを排斥する法律意思説のような概念法学と自由にかつ多くの意見を取り入れることを重視し、裁判官の法創造性や立法者の意思を重んじる自由法学との対立である。 ②-Ⅱその中で私は判例法の拘束性こそがこの対立を中和し法的安定性と妥当性を兼ね備えた結論を導きだすのだと思う。なぜなら、判例は前の事件の見解を基にこうあるべきだからこうだ、なぜなら前の事件で今回のことと同じことが言えるから。それででこういう事実認定に基づきこういう法規を適用する。といった結論までにいたる論の道ができ安くなるからだ、ましてや過去を変えるなんて不可能なのだから、判例法は万人が認める法的拘束性が強いといっても過言ではない、法の解釈をするにあたっては判例法の使用が不可欠だと思う。 ③法の解釈は必要不可欠なものだ。なぜなら、ある事件が起きた場合まず一つ目に事実認定を行い、事実の確認を行い、事実関係の確認を行う。次にその事実関係のことに適した法規を適用しなくてはいけない。さらに、そこには①被告の行為について過失などがあったかについてどうかという法的評価が加わってくる。それは過失は単に不注意という概念から本当に不法行為に値する不注意でやってしまったかどうかという評価を含む概念があるからである。そのことについても決め兼ねなくてはいけないからだ。②、①の見解から過失はレベル別で全く意味の違うものとなる。法解釈は今回の事件はそのレベルのどれかについて切断し割り切るために必要であるそして法規適用にまでいたる。また法の欠陥が生じた場合でも法解釈が必要とされてくるし、行為と侵害との因果関係を明らかにするためにも不可欠なのだ。 ■管理人コメント PR |
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